第252回 「あだ名」から豚考へ

`06.8月8日

「東大教授じゃ飯が食えぬ」とその職をなげうって評論家になった英文学者、中野好夫が、いつぞや「文芸春秋」あたりに書いた随筆で「あだな」に触れたものがああったーと記憶しているのだがー中野が思い出すに付けても秀逸な「あだな」が二つあったとし、一つは「カシナズ.ハイブル.サンタノハナ」二つ目は「スダレ.マンゲツ」だった。 続きを読む 第252回 「あだ名」から豚考へ

第267回 乾山と佐野乾山贋作騒動

`07.11月21日寄稿

7月から奇数月を選んで5回連続する予定の「ふくろう文庫ワンコイン美術講座」もおかげさまで順調だ。

第一回目は、「七夕と北斎の謎」と題して、従来は単なる静物画と見られていた北斎の「西瓜図」の謎を俊英の美術史家、今橋理子の説を持って説明し、第2回目「お化けと幽霊」では、丸山応挙の幽霊画の美術史上における意味を説きつつ世上流布する、お化けと幽霊についての常識を打ち砕いた(とはちと大げさだが)。 続きを読む 第267回 乾山と佐野乾山贋作騒動

第278回 箸の文化さまざま

`08.10月18日

何年前だったか、韓国のホテルで夕食の時、こっちは2人でひっそりと飲んで食べているのに、15.6m程離れたテーブルに陣取った10名程の韓国人のグループが賑やか通りこして、うるさい程の食べ方で、悪いから、しげしがと見る訳にもいかなくて、ちらっと目をやるだけの見方だったが、どの人もしゃべる間は片方の手に、と言うより指に、箸と匙を同時に挟んでそれをチャラチャラとぶっつけ合いながら、口角泡をとばして、談ずるのに気がついた。

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第296回 八木義徳生誕100年..思い出

`10.4月13日寄稿

4月初めだと思うが、室蘭民報社の野崎己代治記者が来て、来年は室蘭の名誉市民で芥川作家の故八木義徳の生誕100年の節目となるが、それについて一言、と言う。野崎さんは、私がこの市立図書館に招かれた時に素早く、拙宅迄取材に来てくれた人で、つまりは気心の知れた人だから、私は心開いて色々な事を話したが、そのあと「関係者らの声」として、民報紙上にのった所をみると、野崎さんは、私が語ったあれこれを次のように上手にまとめていてくれた。

〜元市立図書館長の山下敏明さんも、との前書きでこう続く「北方(ロシア文学)の感覚を取り入れながら、コツコツ独自の世界を築き、文学の正道を歩いた人。忘れず読み続ける事が大事『海明け』などは(母校である)室蘭栄高校の全生徒に読んでほしいくらい。読み継ぐことが文化の継承になる」と願っている。読んで私は自分が伝えたいことが過不足なく表現されたことに満足して、野崎さんに内心感謝した。

ところで上記の文は読んでお分かりのように民報紙にのせた「本の話」の一話だが、その中で読み継ぐことが「供養」となると言うのが、今回も野崎さんに伝えた所の私が話したい主旨なのだ。

野崎さんの談話のおかげで、私は或る事を久しぶりに思い出していた。

それはもうかれこれ40年程も前の話だ。室工大勤務の私に、誰だったか忘れたが電話がかかって来た。一つお願いがある。と言う、そのお願いとは、八木義徳が来蘭するので、八木を囲んで室蘭文芸協会が座談会を開きたいのだが、

(その時点での)一番新しく出た本である「摩周湖」が図書館にもなく、又協会員も持っていない。ついては蔵書家との噂のある貴方がひょっとしてお持ちでないか?して又おもちならばちょいと座談会の前に貸してもらえないか云々(うんぬん)

私はその頃、室工大で、学生と一緒に本を読み続けてる身であったから、室蘭の文化協会はおろか、文化連盟の人達をも殆ど知らなかったが、まあ担当者は困っているのだろうと思って、(私は本を貸さない主義だが)この時ばかりは貸した。座談会は、昭和47年9月13日.夕.6:00から図書館3階の講堂(今ふくろう文庫の美術書を置いてある部屋)だった。

私は本を貸した手前、出席せねばなるまいと、来てみた。八木を囲んで両脇に並んだ人達を私は知らなかったが、その中の一人が、「私共、八木先生の作品を日頃出るつど(だったか)受読している身として〜」てな挨拶をして八木の話が始まった。因みに私が貸した「摩周湖」は昭和46年4月25日発行でああるから、この時既に一年余が過ぎている訳で、となれば未だ読みもせず、おまけに持ってもいずでは、余り「受読者」とは言えないんじゃなかろうかなどと内心私は思わぬではなかったが...

その八木の話の中で、私がまるでこりゃドストエフスキーの人物だわと思ったのがあって、それは、この北国の室蘭に春が来る、雪が溶け始めて地面が表れる、すると私は、オーバーを投げ捨てて、ガバッとその泥の上へ身を伏せて大地の香りをかぐのです。皆さんもおやりでしょう?と言った趣の話を聞きながら私はいや、俺はそんなバッチイまねはしたことがないな、と甚だ非文学的なことを考えていたのだった...がそれは今おいて、

やがて「本」が返されてきた。一応汚されていないかを確かめようと函から出して表紙をめくると、八木義徳のサインが目についた。万年筆で書くと聞いていた八木の端正な字で私はあーサインしてくれたのか、と思いつつ、今度は裏表紙に目をやると、何やら、落書きのようなものがある。これはしたり!こりゃ何だ、と思ってみると、これぞ金釘流と言うのか、八木とは似ても似つかぬ字で「蟹は甲羅に似せて穴をほる」とある。これにはおどろいた。これは「蟹は自分の大きさに合わせて穴を掘ると言う事から、人は自分のっ力量、身分に応じた言動をするものだ。又はそれぞれ相応の願望を持つものだ」と日本国語辞典に説明してある。

書いた人の信条か、座右の銘かは知らぬが人の本に書く神経が分からぬ。どんな穴でもいいから掘るなら1人で掘ってもらいたい。おまけに「借読の記念に」とある。人から借りた本に一々こうしたことを書き付ける人がいるんだろうか。私としては、本を汚された思いだが、驚き、諦め...今に至っている。因みに私は人からめったに本を借りぬが、借りたとて、たのまれたとて、こんなことはしないな。人様々だ。

司書独言(98)

`09.11月

○月○日 10月6日今月号の「あんな本・こんな本」の原稿を仕上げた2日後、また石原がやらかしてくれた。オリンピック「リオデジャネイロ発言」。今度はいかなる屁理屈で逃げるのか?

石原の言う通りならサルコジはどう弁明するのか?中々の見物だわ。そのあと、ヒロシマとナガサキが立候補と出た。「開催理念は後からいくらでもうたえる」と理不尽な事をほざいている石原より「世界平和構築」なる理念の方がはるかに上等な事は言うまでもないな。

○月○日 ダムで頑張っている前原に向かって「おれが暗殺する。8月20日決行だ」とインターネットの「2ちゃんねる」とやらに書き込んだ20歳の無職男が捕まった。これで思い出したが、以前、「道新」の「朝の食卓」欄に書いていた時、森が「神の国」発言をした。時あたかも、日本を西欧世界に紹介するに当って大いに力のあった博物学者シーボルトの収集物の「里帰り展」が開かれていて、私はこれにからめて、森の発言を批判した。すると日を置かずに函館の右翼と名乗る男から巻き紙に墨書の手紙が来て、「お前のようなインテリは生かしておけぬ」と言った内容で、私は初めてインテリ呼ばわりされて驚いたが、恐怖よりも、「居るもんだなあ」と言う不可思議な気持ちを持ったのだった。まあ、この右翼男も今回の無職男も、自分なりに気持ちがいいのだろう。巻き紙の方は、記念に取っとこうかと思ったが、ケッタクソ悪いので捨ててしまった。

○月○日 サンクト・ペテルブルクでロシア国営天然ガス独占企業が430Mの「オフタ・センター」なるものを立てようとして、市民3,000人の反対にあっている由。昔この都を訪れた時、大通りの両側に連なる石造りの建物が、訂正以来すべて同じ高さ(100m制限)に建てられていて、その整然たる美しさに感じ入ったことがある。帝政やスターリン体制は破られてしかるべきだが、「世界遺産』に指定されている景観が損なわれることは、流行の台詞ではないが「あってはならにこと」だ、と外国人の私からしてそう思う。

○月○日 景観と言えば...室蘭民報に連載中の「本の話」(第485回・200712月9日付け)で私は「秀麗な景色があぶない....」と題して、1711年に来日した朝鮮通信使達が、現福山市の「鞆の浦」の景色を「日東第一形勝」と絶賛したことを紹介し、だが、どうして「江戸期の港湾建造物が5セットも現存しているこの由緒ある地に、市長が港を埋め立て橋やらバイパス道路を計画しているとの事だが、朝鮮通信使達はこれを何と聞くのでしょう?」と結んだ。私としては曾遊(そゆう)のこの地の美しさが目に焼き付いていたので、こう書いた訳だが、過ぐる10月1日、広島地裁は「鞆の浦の景観は国民の財産』として、この事業計画を差し止めた。まあ結構な判決よ、と胸をなでおろしたのも束の間、県は控訴する方針を固めたと言う(10/12報道)。市長をはじめとする連中は、歴史に対して、少しは名を惜しむと言う態度を取れぬものかな。景観を守って名を留めるか、こわして名を折るか、の瀬戸際だ。

○月○日 某氏が来館しての話。彼、司馬遼太郎記念館に行ってきたそうな。その時20人程のアメリカの建築専攻の大学生が、教師に引率されて来ていたが、彼が訊いてみると、教師初め全員が司馬遼太郎が作家である事も、ましてや文化勲章受賞者であることも知らず、教えると「へえー」と言い、では何故ここに来たのか?と訊くと。「安藤の作品」を観に来たのだと答えた由で、某は魂消えていた。「へえ、そんなものなの?」と私も返したが、思うに半藤一利の司馬と松本清張の比較論を読むまでもなく、果たして司馬が本当に国民的作家たり得るや否や、そして何故清張は文化勲章ではないのか?と言った事供合わせてみるに、アメリカの人が司馬を知る必要もありやなしや...ではなかろうか。土台、日本の建築専攻学生とても、米のM。トウェインや、エマーソンやソローを知っているかどうか?だて。

○月○日 夏目漱石の曾孫、夏目一人(かずと)らが財団法人「夏目漱石」を設立して、「漱石に関する人格権、肖像権、意匠権その他無体財産権の管理事業」や漱石費、漱石検定を手がけると発表した(6月中旬)ら、孫の夏目夏目房之介らが「漱石という文化的存在を将来にわたって維持し、享受や批判をさかんにして再創造につなげて行くためにも、特定の者が権利を主張したり、介入したりすべきではない」と反対した、そうな。当たり前だ。

漱石の著作権は1946年に切れているのに、今更一人の言の如き論が生まれてくるのは、有り体に言えば、子々孫々爺様の成した偉業のおこぼれで食って行こうと言う事だろう。漱石の創作に関わったでああろう妻子までは著作権の恵みが届いても当然だろうが、漱石の顔すら見た事もない曾孫達が、したり顔にそれらしき理屈をつけて管理云々などとは笑わせる。浅ましいとしか言い様がない、と私は思うね。(山下敏明)